↑ ミサイルの装着作業は、トレーラーの操作員を含め4名で進められた。この重いミサイル2本と空対空ミサイル、それに増装タンクを付けての低空飛行は、パイロットへの負担が大きいはずであるが、当時のF-1パイロットはこれを皆得意としていたのである。当然三沢基地に配備が始まっていたE-2Cとの連携も進めていただろうが、F-1戦闘機がレーダーで極東ソ連艦隊の艦艇を捕えた場合、直ぐに海面近くまで降下して低空飛行に移り、ASM-1ミサイルの射程圏内に入った時点で、座標をミサイルに送り、リリースするはずである。ASM-1の優位性は、慣性誘導であるので相手方のレーダー妨害に強く、天候にも左右されにくい特徴にあった。
↑ F-1戦闘機が細身の機体であるから、ASM-1が大きく見えるが、射程が僅か50㎞の為、これを2発積んでソ連艦隊の近くまでレーダーに発見されない様、低空飛行で近づかねばならず、F-1戦闘機のパイロットは、この低空飛行を日常的に訓練していた。ASM-1には、F-1が捉えた目標位置座標データを送り、ミサイルは内蔵されたジャイロや計測器で座標まで飛んでいく、これを慣性誘導と言うが、座標地点まで行けばミサイル自身のアクティブレーダ―が作動して、目標を捉え突っ込むようになっている。
↑ 模擬弾と言えど、ASM-1の重量600㎏を忠実に再現しているので、作業風景は実弾と同じとなる。全長約4mの対艦ミサイルは、実弾ならば150㎏の弾頭が積まれており、1発で中型フリゲートを仕留める力がある。
↑ 続々と運び込まれるASM-1ミサイル(模擬弾)。4機分計8発が用意され、大型爆弾など重武装の火器を装着する特殊車両が動き回る。1飛行隊20機が、計40発のASM-1を抱えて敵艦隊に突進した場合、例えソ連太平洋艦隊と言えど、その対空ミサイル網では対応しきれないはずである。これを飽和攻撃と呼ぶが、対艦ミサイルでの飽和攻撃は、元々ソ連海軍の発想から生まれたもので、敵アメリカ空母を相手に、ミサイル巡洋艦の長距離対艦ミサイルの飽和攻撃で一挙に叩こうとしていたものである。これに対し、アメリカ海軍が開発を進めていたのが、対艦ミサイル飽和攻撃に対抗する現在のイージスシステムであったのだ。
↑ この日は、第3飛行隊が中心となって、F-1戦闘機に対艦ミサイルASM-1(模擬弾)の装着を披露したが、一度エンジンを始動して、アーミングエリアへ移動し、各機2発のミサイルを装着すると言う凝った演出で、熱の入った作業風景を披露した。
↑ 203号機は3Sqにいたが、築城基地の6SqのF-1配備に伴い、築城基地に送られ6Sqで永らく活動していたが、1980年代末に再び3Sqに復帰していた。コックピットの前部風防は新型の1枚ガラスに切り替えられている。
↑ 上2枚は1991年秋の第3飛行隊の列線である。写真の列線奥には2機 第8飛行隊所属機が含まれているが、16機も並んでいると実に壮観である。奥のライトグレーの機体は、飛行隊所属のT-2練習機で、183号機/3Sqと130号機/8Sqが見える。
3rd Squadron
Pege-7
空対艦ミサイルと言うものが、一般の人にまで良く知られる切っ掛けとなったのが、1982年4月に起きたイギリスとアルゼンチンの戦争、所謂フォークランド紛争であろう。この紛争の中で、アルゼンチン空軍のシュペルエタンダール戦闘機が放ったエグゾゼミサイルが、何とイギリスの最新鋭駆逐艦を撃沈したのである。轟沈ではなかったが、ミサイルの被弾が原因で火災が起きて、総排水量4800トンもの駆逐艦が沈んだ訳だ(しかも弾頭は不発だったそうである)。戦況を連日報道する新聞やテレビ映像で、フランス製のこのミサイルがエグゾゼ(フランス語で”飛び魚”を意味する)と言う名の対艦ミサイルである事は、日本のお茶の間にまで知れ渡った。この紛争は、同時に垂直離着陸機ハリアーと空対艦ミサイルの有効性を大いにアピールする結果となった戦争でもあった。ただ日本では、この紛争が起きる前からF-1戦闘機に対艦ミサイルを積ませる計画で、旧ソ連艦隊に対抗するためのミサイル開発を進めていたので、1980年には80式空対艦誘導弾としてASM-1配備が始まっていたのだ。少なくともこの紛争の結果は、対艦ミサイルの開発者と運用者側に、我が意を得たりとの自信をつけさせ、プロジェクトの更なる発展に好影響を与えたはずである。本項では、F-1に模擬弾であるがこれを装着する1991年9月の風景を中心でご紹介したい。翌々年の1993年には次世代の対艦ミサイル 93式空対艦誘導弾(ASM-2)がデビューしているから、フォークランド紛争から9年が経過した1991年には、既に300発近いASM-1が生産されていたと考えられる。(2024年3月 記)
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↑ 築城基地に次々に新造のF-1戦闘機が入り、252号機の奥にいる253号機も築城の6Sqから3Sqに移動してきた。しかし 253号機は、1998年に僚機230号機と空中で接触して失われた。